八王子小門町の親分・蕎麦亀こと伊野亀吉
- 2012/01/04(水) 20:33:51
一昨年の十二月に書いた『杉本万平の遺物・人間関係』の記事で少し触れた蕎麦亀こと伊野亀吉についてここで簡単にまとめておこうと思う。参考文献は皆木繁宏著『小金井小次郎伝』(小金井新聞社)、子母沢寛著『駿河遊侠伝 上』(講談社)、三田村鳶魚著『三田村鳶魚全集 第13巻』(中央公論社)、増田知哉著『侠客 博奕打ち物語』(雄山閣)、加川英一著『幕末・明治無名博徒言行録』(新人物往来社)など。また、パルテノン多摩歴史ミュージアムで開催された企画展「幕末任侠伝〜一ノ宮万平とその時代〜」(公益財団法人多摩市文化振興財団主催)の展示パネルも参考にした。
亀吉は天保七年八月五日生まれの博徒で、一ノ宮万平こと杉本万平の子分となり、万平の二代目・井上勘五郎の跡目を継いで三代目となった人物である。『三田村鳶魚全集 第13巻』の「侠客の話」によれば、亀吉は小仏から四谷(現在の八王子市四谷町のこと)までの間でただ一人の侠といわれた大親分で、三多摩をはじめ七郡に縄張りを持っていた。そのシマ内で開帳される博奕で最も有名だったのが八王子の子安で行われる「山博奕」という野天博奕で、一日に五千両のテラ銭が上がることもあったという。一方で彼は蕎麦屋を経営するという変わり者でもあり、「蕎麦亀」の通称もこれに由来する。その人柄は温厚誠実で、『三田村鳶魚全集 第13巻』には「腰の低い温和な人で、いつでもニコニコしている」、『小金井小次郎伝』には「義理堅いそば亀」とあり、「幕末任侠伝」の展示パネルには「律義な人物だったらしく」と書かれていた。また、亀吉は大の喧嘩嫌いで知られ、「喧嘩なんぞをするというのはどうしたことか、私どもが喧嘩して勝ってみたところが、相手を殺してみたところが、それでどうなるわけでもない」(『三田村鳶魚全集 第13巻』より引用)と常々言っていたというから、三年前の四月に取り上げた幸平一家初代の藤沢幸平とどこか似たものを感じる。亀吉の没年については、いくつかの文献に「明治三十二年七月十八日」とあり、「幕末任侠伝」の展示パネルにも同様の記載があったが、『三田村鳶魚全集 第13巻』には「明治三十六年頃に六十余でしたろう」という記述がある。伊野家の菩提寺は八王子市子安町の興林寺で、同寺には亀吉が明治二十六年に建てた「三侠の墓」なるものがある。三侠とは杉本万平、井上勘五郎、丹波屋伝兵衛(伊勢古の大侠客)のことで、『駿河遊侠伝 上』や『小金井小次郎伝』、「幕末任侠伝」の展示パネルによれば、伝兵衛は明治二十三年の二月に伊勢を引き払って八王子横山町の亀吉の別宅に隠棲し、同年の十二月十六日に心臓麻痺を起こして死んだという。ちなみに、亀吉亡き後その跡目を継いだのは、子安の曲七こと内田七太郎である。曲七の名は彼の本業が曲物屋だったことに由来する。
テキヤと非テキヤの境界
- 2011/11/03(木) 20:05:39
最近、新聞や雑誌で、暴力団とは無関係な露天商が組合を設立したという記事を目にするようになった。こうした堅気の露天商人をテキヤの言葉で「ジンバイ」という。組織に加入せず個人で商売をする素人をジンバイ、組織に加入して商売をするプロをテキヤと呼ぶのが一般的だが、このジンバイという言葉の定義は曖昧で、解釈も人によって様々である。
ジンバイについて研究している玉川大学リベラルアーツ学部教授の八木橋伸浩氏は、著書『調布市域の香具師集団 文章から探るその歴史と実像』(調布市郷土博物館)や調布市史編集委員会編『調布市史 民俗編』(調布市)の中で、「ジンバイとは、もともと半農半商の人たちが主体であるとされ、いわば土地に根づいた農家からの派生であり、近世後期の農間余業にその系譜を求めることもできる」「タンカバイを行なうコロビと仁義を重んじ生活必需品を売るジンバイの別もある」「現在の露店の店構えを指す言葉である三寸(サンズン)とはジンバイのことであるともいわれている」「ジンバイこそが露店商の本流である」といった主張をしている。ジンバイとコミセを同一視する向きもあり、コロビ系の寄居一家竹東二代目・小島鉄広親分は、その著書『暴力の抹殺 八王子のもう一つの顔』(小島芸能プロダクション)の「露店業態のいろいろ」の中で、「ジンバイ、コミセ。取り扱う商品は、風船、おでん、お好み焼、ほおずき、菓子類、煎餅、花火、玩具、電気アメといったもので、いうなれば子供向き『ゴラン、ジャリ』の品が多い。その販売手法は『ナシオト』つまり、おとなしく無口上で『タンカ』などやらない」と解説する。また、北園忠治著『香具師(てきや)はつらいよ ある露店商人の独白』(葦書房)にも同じような解釈が書かれている。高橋豊ほか編『テキヤのマネー学』(東京三世社)の「コミセ」の節は少し踏み込んで、「小店、あるいは小見世。この黙って売る商売スタイルをジンバイといい、その店をジンテンというらしい。ただ、ジンバイはカタギ、つまり非テキヤの店という意味もあるという」と記している。
取り扱うネタの違いについても、人によって見解が分かれる。たとえば、上記の小島親分はジンバイが取り扱う商品として電気飴、今でいう綿飴を挙げているが、この電気飴はもともと飯島一門で商われていたものであり、立派なコロビのネタといえる。松元健治著『テキヤ』(創栄出版)にも「テキヤは綿あめ、金魚すくい、ヨーヨーつり、あてくじ等の夜店のメインとなるネタを販売し、じんばいはおもちゃ、おでん等のおとなしい品物しか扱えない事になっていました」という記述がある。
以上、ジンバイという言葉の解釈の例を幾つか挙げてみたが、先月一日に施行された「暴力団排除条例」により、今後はプロのテキヤが堅気の露天商を騙るケースも増えるだろうから、テキヤと非テキヤの境界は一層曖昧になるかもしれない。
ヤクザが発行した新聞
- 2011/10/09(日) 00:12:11
一九七一年七月から一九七五年一月まで発行された「山口組時報」(三ヶ月に一回発行、第十一号を最後に休刊)はヤクザ業界初の機関誌として知られるが、それを溯ること八十年前の一八九五年、ハワイ移民による博徒集団・日の出倶楽部が、現地で「日の出新聞」なる機関紙を発行していたことはあまり知られていない。
これは倶楽部のPRを目的としたもので、週刊の新聞として発行されていたという。日の出倶楽部は動音梅太郎を親分とする組織で、全盛期には百五十名を超える会員がいた。当時のハワイには他に義侠クラブ、一心クラブ、大和クラブといった同種のグループが存在し、どの集団も賭博に脅迫、さらに、誘拐や人身売買にまで手を染めていたという。ヤクザとマフィアの違いは公然的かどうかにあるとされるが、ヤクザのような公然活動を行う一方でマフィアのような非公然活動を行う集団が百年以上前に存在していたのである。


